夏と言えば、涼しさを求め、ヒヤッとするこわ~いお話がピッタリですね!
今回は香港の地域に関するこわ~いお話をご紹介していきたいと思います。
香港島の北角(ノースポイント)に七姊妹道という通りがあり、日本語に直訳すると七姉妹通りです。現在の七姉妹通りの一帯は本来海辺であり、七姉妹村や七姉妹区とも名付けられていました。名前の由来については2つの説があります。
一つ目の説
百数十年前の現七姉妹通り付近に村があり、そこに七人の姉妹が住んでいました。姉妹達は仲が良く、生涯結婚をしないと誓い合っていました。でもある日、彼女たちの親が三女を同郷と結婚するようと迫ったのです。
姉妹達は結婚式の前夜、互いに泣き叫び「死んでも嫁入りしない。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん。」と誓い、手と手を取り合い、海へ向かい入水自殺をしました。村人は七姉妹の死体を見つけることはできなかったが、引き潮と同時に海辺で大きさが順番に並べられた七つの岩礁が現れました。村人が岩礁は七姉妹の化身であるとし、七つの岩礁を「七姉妹石」と名付け、村も「七姉妹村」と名付けられました。
二つ目の説
先のお話より、更におぞましさを強化されたお話です。 (笑)
同じく百数十年前に七姉妹は村に住んでおり、姉妹達は幼い頃から両親を亡くしていました。両親のいない姉妹達は互いに助け合い、平和に暮らしていました。
ある日、極悪な村はずれの者達がやってきました。彼らは村を荒らし、七姉妹達は懸命に村を守ろうと立ち上がり、抵抗しました。もちろん姉妹達は必死で抵抗するも男達には敵わなかったのです。特に頭目は姉妹の中でも最も勇敢に立ち向かった末っ子の姿を気に入り、三日後に末っ子を嫁にもらうと言い、その場を去って行きました。三日後に男達がまたやってきて、強行突破で末っ子を嫁にもらおうとした。姉妹達は海辺まで逃げ、一つの大きな岩礁にまで追い込まれました。逃げ道を失った姉妹達は岩礁の端から「同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん。」と言い放ち、手と手を取り合い、海に飛び込み入水自殺をしました。七日後の初願忌に手と手を取り合っていた姉妹の死体が海から浮かび上がり、極悪な村はずれの者達は呪われて自殺もしくは非命の死を遂げたとされました。
ここまできて二つの説とも岩礁がお話の中から出てきました。どちらの説が正しいのか、「七姉妹石」とされた岩礁は七つなのか、一つなのか?検証すれば分かることですが、七姉妹区は何度も埋め立てられてしまいました。土地を広げるため、真相を知る岩礁は永遠に海の底に埋まってしまいました。
歴史上での七姉妹
上記のお話のように七姉妹村が発展し、七姉妹区と名付けられていた時期もありました。
1849年の人口推計資料によると七姉妹村には約200人住んでおり、そして100軒以上の家があったとされています。
以降、現在の七姉妹通り付近が七姉妹区とされ、1911年に香港中華遊楽会が七姉妹区の海辺を借り入れ、市民が泳げるよう桟橋を設置しました。それが「七姉妹桟橋」もしくは「七姉妹海水浴場」と呼ばれ、毎年約10万人が海水浴に訪れていました。(1916年の香港の人口は約53万人)
チンチン電車(路面トラム)が通る香港島の中心地で、交通の便も良く、好立地だったため、仕事帰りで夜になっても泳ぐ人は多かったそうです。その頃から七姉妹海水浴場で男性の水死が多発し、七姉妹の呪いではないかと人々が騒ぎ始めました。
大岩に挟まれた男
1913年7月17日の香港華字日報によるとノースポイントの七姉妹ロード付近の海辺近くの岩に男が挟まれていたという奇妙なニュースが記録されています。
1913年7月のとある夜に七姉妹通り付近の海辺で男の叫び声がしたが、近所に住む人達は幽霊だと思い込み、そのまま無視して朝を迎えました。叫び声は朝になっても止まず、近所に住むものが恐る恐る岩を覗いたところ、大きな岩に男の人が挟まっていました。何十トンもする大きな岩で狭い隙間にどうして挟まれたのか、誰もが不思議に思いました。そして男はろくに言葉を発する事さえできなかったのです。長時間に挟まれては危険だったため、食料を渡すも口にしませんでした。手を差し伸べては、差し伸べた人に嚙みつこうともしていたため、警察からのちに消防隊も出動させましたが、非協力的だったため、引き上げられませんでした。最終的に英軍八十八隊を出動させ、麻酔を打って落ち着かそうともしましたが、注射器を壊し、反抗的でした。英軍八十八隊も約六時間の葛藤を続けましたが、結局諦めてその場を去りました。のちに工務局の職人も手助けしようと思っていましたが、日が暮れるにつれ、長居することを恐れて去っていきました。最終的には朝の4時頃に5名のアメリカ水手が入れ替わりで鋸で岩を切り落とし、男を助けることができました。男は約30時間挟まれ、衰弱しており、立ち上がることもできませんでした。怪我は特にないが、精神病棟に入ることとなり、どのようにして岩に挟まれたのかは謎に包まれたままである。
1918年には「名園遊園地」が開業となり、大型ブランコやメリーゴーランドはもちろん、動物園や広東オペラホール、そしてダンスホールも完備しており、子供から大人まで楽しめて、当時の中でも一流の遊園地でした。
1930年代の初期に七姉妹海水浴場の一帯を埋め立てる予定と政府が発表しました。
しかし1933年に当時15歳だった水泳選手である楊秀瓊が全国大会で4つの最高記録をたたき出したことにより、水泳もまた流行となりました。(※楊秀瓊選手は1936年のベルリンオリンピックにも出場している。)楊秀瓊選手がよく七姉妹海水浴場を練習場として利用していたため、七姉妹海水浴場の埋め立ては市民の反発をかうこととなり、埋め立て反対運動や署名活動が行っておりました。それにもかかわらず、翌年の1934年には海水浴場を移転することとなりました。その後は第二次世界大戦に入ったこともあり、移転先は定かではありませんでした。
戦後の1948年から埋め立ては再開され、1952年に完工となり、現在の北角(ノースポイント)、そして七姉妹通りとなります。
現在「七姉妹」の名称が残っているのは、「七姉妹通り」と「七姉妹郵便局」のみとなります。
もし夏の蒸し暑い香港へ行ったときにヒヤッとしたいのでしたら是非七姉妹通りへお越しになるのはいかがでしょうか?(笑)