今回ご紹介するのは、千円札の顔、みなさまがよくご存知の文豪――夏目漱石が来港したお話です。
夏目漱石の日記である「漱石日記」は明治三十二、三年から大正五年の死の年まで全集版で八百ページを超す日記です。当時は船で移動のため、夏目漱石がイギリス留学へ行く途中で上海、香港、シンガポール、コロンボに立ち寄り、スエズ運河を通過して、10月18日にナポリに到着します。今回はここから香港での滞在を記録したものをご紹介したいと思います。
九月十九日(水)
微雨なおやまず。天漸く晴れんとす。
阿果鳥熱き国へぞ参りける
稲妻の砕けて青し浪の花
午後四時頃、香港着。九龍という処に横着になる。これより香港までは絶えず小蒸汽ありて往復す。馬関·門司の如し。山巓に層楼の聳ゆる様、海岸に傑閣の並ぶ様、非常なる景気なり。十銭を投じて香港に至り鶴屋という日本宿に至る。汚穢おるべからず。食後Queen’s Roadを見て帰船す。船より香港を望めば万燈水を照し空に映ずる様、綺羅星の如くといわんより満山に宝石を鏤めたるが如し。diamond及びrubyの顕飾りを満山満港満遍なくなしたるが如し。時に午後九時。
《漱石日記》明治33年(1900年)
夏目漱石は1900年(明治33年)九月十九日(水)に香港の九龍に到着します。上記の日記内容でもお分かりの通り、当時では100万ドルの夜景でなくとも、すでにダイヤモンドやルビーなどの宝石のような夜景と感じたことを綴られております。
また当時はすでに日本人が「鶴屋」という旅館を営んでおりました。夏目漱石は妻である夏目鏡子への手紙には、鶴屋で和食を召し上がったことを綴られております。
九月二十日(木)午前再び香港に至りPeakに登る。綱条鉄道にて六十度位の勾配の急坂を引き上る。驚くばかりなり。頂上より見渡せば非常な好景なり。再び車にて帰る。心地悪き位急な処を車にて下る。帰船。午後四時出帆。
《漱石日記》明治33年(1900年)
滞在2日目はビクトリアピークにも行かれ、ピークからの景色もご覧になったそうです。
ピークと言えば、現在でも有名なピークトラムです。ピークトラムに乗ると夏目漱石が言っていたように、今でも変わらず急坂になっておりますので、同じ気持ちをご体験してみてはいかがでしょうか?
「漱石日記」ではこれだけの情報となりますが、また別の角度から夏目漱石の香港滞在情報を読み取ることができます。
芳賀矢一
日本の国文学者であり、帝国学士院会員でした。彼の日記である「芳賀矢一文集」からも夏目漱石と香港滞在をご一緒されたことが綴られております。
「漱石日記」の九月二十日(木)ではピークに行かれておりますが、ピークに行かれる前にセントラルからスターフェリーに乗られていることを芳賀矢一の日記である「芳賀矢一文集」に記録されております。
※夏目漱石が乗ったのはスターフェリーのモーニングスターです。
上記の情報から読み取れるのは、120年以上前に香港を訪れた夏目漱石は現代の日本人観光客と同じく、ビクトリアピークに行き、スターフェリーに乗り、香港の夜景に感動されています。
香港の良さは今でも変わらないことがわかります。
今回このような貴重な資料及び情報はおしゃれキリ教室のキリ先生及び恒松郁生教授からご提供いただきました。
恒松郁生
ロンドン夏目漱石記念館館長、作家、崇城大学図書館長、副学長を経て、現在は教授。作家としてのペンネームはサミー・恒松。鹿児島県薩摩川内市出身。桜美林大学文学部英語英米文学科卒業後、1974年から在英30年。海外でホテルマン、旅行代理店のオーナー等を経て、大英博物館前で稀覯本専門の古書店や、ギャラリーを経営。2004年に夏目漱石ゆかりの地、熊本にある崇城大学で教鞭をとる。ロンドン夏目漱石記念館主宰。日本では崇城大学教授としても教鞭を振るう。
キリ先生
日本語教師で旅行作家。特に日本が大好きで年に10回以上は訪れる。著書に『Kiri的東瀛文化觀察手帳』(2017)、『日本一人旅』(2019)がある。香港の誠品などの書店で購入可能。
今回は簡単にご紹介させていただきましたが、もしも夏目漱石の香港滞在についてもっと詳しく知りたいのでしたら、是非キリ先生のブログをご覧ください。夏目漱石だけではなく、その他の著名人についても研究を行っております。