香港といえば高層ビルのイメージが強いですが、イギリスによる植民地時代もあったため、洋風なチューダー様式やゴシック様式の建物もあります。
まず、今回は一級歴史建築の會督府(ビショップ・ハウスBishop’s House、広東語:ウィ・ドッ・フー)をご紹介します。
會督府はキリスト教会の一つ、香港聖公会の大主教宅として建てられました。
香港聖公会とは?
キリスト教を大きな組織として考えてみましょう。聖公会はイングランド教会から生まれ、日本を含んだ世界中にその組織のあるキリスト教の一派です。教義としては西洋のキリスト教の大きな組織である「ローマカトリック」と「プロテスタント」の中間に位置すると言われております。
歴史
1842年に『南京条約』が結ばれ、香港は清王朝からイギリスに割譲されました。その翌年に、スタントン牧師(Vincent John Stanton, 1817-1891)は聖パウロ宗の牧師及び教主として命じられ、植民地となった香港に来航しました。香港人の男の子にも教育を受けてほしい一心で、学校を建てることを計画し、イギリスに戻り、資金を募り始めました。学校は最終的に1851年に設立され、そして校長及び教主の住まいとして、その横に建てられたのが會督府です。
その学校が1851年に設立され、その名も「聖保羅書院(St. Paul’s College, 聖パウロ学院)」です。なお、香港で最も古い中学校と言われております。
聖保羅書院の最初の校長及び教主がビショップ・スミス・ジョージ牧師(Bishop George Smith, 1815-1871)であり、また香港初の教育部門長官であったため、学校横の建物を英語で「ビショップ・ハウス」と名付けられました。
その後、4名の教主及び校長を経て1878年の12月25-26日に大火事が発生しました。物に損害が出てしまい、下記の画像は当時火事で残った外観です。
その後すぐに補修工事が行われました。
1909年には教主は校長を兼任することをやめ、會督府(ビショップ・ハウス)は教主のみが住むこととなりました。
日本占領時期では建物に破損はなく、また外国籍の人たちの隠れ家でもありました。
第二次世界大戦後、聖保羅書院は般咸道(Bonham Road, ブンハムドウ)へ移転し、會督府(ビショップ・ハウス)は引き続き、教主の住まいでありながらも事務所として使用しており、同じ聖パウロ宗の牧師や教主が来港したときの宿泊先でもありました。
最後に會督府に住んだのは1981年から2006年まで在任していた鄺廣傑(Peter K.K. Kwong, ピータークォングォンギッ)教主です。その後、ピーター教主は九龍(Kowloon, ガウロン)に引っ越し、會督府は事務所となりました。2011年に事務所が灣仔(Wan Chai, ワンツァイ)に新たにできたことにより、會督府は現在、資料保管館となりました。
建築
三階建ての會督府はチューダー建築様式を取り入れ、花崗岩建造となっております。
なお、主門には「ANNODOMINI1851(西暦紀元1851)」と書かれており、聖保羅書院が設立された年です。
地下の別の門には「耶穌教(キリスト教)」の三文字が書かれています。地下の門は本来、聖保羅書院とつながる廊下であったが、書院が移転して以来は塞がれていました。
一階に入って左側に小さな聖堂があります。
一階に入って右側には大きなリビングがあり、西側の壁には八名の英国籍の教主の肖像画が飾られています。東側には大きな会議室があり、ミーティングや小さな講義に使わられておりました。また更に入ると、奥に事務室がありました。この会議室と事務室の部分には長い廊下があって、19世紀末までは海を一望することができたのですが、のちに高層ビルがたくさん建てられ、今は海が見えません。
二階は事務室、寝室、キッチンとリビングダイニングになっており、また塔側を繋ぐ通路があります。三階の部分は1966年から1967年にかけて、ジョン教主(John Gilbert Baker「八人目の教主」1966-1981年在任)の息子さんが自ら修繕の設計及び監督を行い、今もそのままの様式となっております。しかし、この部分は公開されておりません。
また、會督府には地下室もあり、現在は温度と湿度を調整できる資料保管室となっておりますが、こちらも公開されておりません。
今回のご紹介はいかがだったでしょうか?
會督府は本来一般公開されておりませんが、時よりオープンデーや勉強会を開催することがあります。
もし、時間を合わせることができましたら、是非一度伺ってみてはいかがでしょうか?
また違った角度から香港を知る事ができるかもしれません。
住所:
香港中環下亞厘畢道1號
1 Lower Albert Road, Central, Hong Kong